【Cameraman and Editor's NOTE】11)撮影は続く

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【Cameraman and Editor's NOTE】11)撮影は続く
2020年10月10日公開「ぼくたちは、夢中になりたい」に撮影・編集で関わっています。
それにまつわる話を【Cameraman and Editor's NOTE】として書いていきます。
10月10日公開なのに、9月29日時点でまだ撮影してます。
というか、自分だけが出る場面を自分の倉庫で自分だけで撮影するのを、すっかり忘れてました。
そんな一幕。
無理な体制でカメラを設置して、最悪倒れても壁にもたれるから大丈夫、というときは大抵、その最悪のことが起こります。
でも本当の最悪は想定してないことが起きることで。
 

【Cameraman and Editor's NOTE】10)あの日のあそび座

 
静岡でストレンジシードというパフォーマンスのイベントが行われて、「ぼくたちは、夢中になりたい」のプロデューサーであり脚本演出のあまるさんと美術制作のひっきぃさんによる「あの日のあそび座」という演目をyoutubeから観覧しました。
戦前に静岡にあった見世物小屋の再現、という内容で、「ぼくたちは、夢中になりたい」が近未来での失われた劇場再建というストーリーでですから、対になっているような公演でした。
その時代の中間に私たちは存在をして活動を行っている、ということになります。
失われた文化が持つ魅力というものがあって、失われて初めて輝くという矛盾を秘めています。または失われる過程の美学というものもあって、それは趣味の極みでもあるでしょうが、逆に言えば葬式を追いかけているようなもので、同時に悪趣味の極みでもあります。
まだ残ってるんだ、珍しいね、こういうのもいいよね、残ってほしかったよね、そういった評価だけでは残らないのですよ。
ちなみに今、唯一残っているとされる「見世物小屋」はすっかり演劇になってしまっています、舞台と客席の信頼関係で成り立っているゴキブリコンビナートによる演劇に。

【Cameraman and Editor's NOTE】9)長回し

 
この作品の一番の見せ場は、と言えばラストの9分26秒にわたるノーカット長回しを挙げます。
ここが映画っぽくないところでもあるのですが。
もともとのシナリオではここはこんな長回しではありませんでしたが、現場での役者のこだわりを尊重した結果です。
演劇の役者からしてみれば、生の舞台とは幕が上がれば終演までやり直しがきかない長回しみたいなものなのかもしれません。なにがそんなに珍しいのか、という感覚でしょう。
ただ映画で長回しといえば、例えば長回しで大きなインパクトを与えて長回しの話と言えば必ず出てくる「トゥモローワールド(2006年)」の一番長い最後の戦闘シーンが6分16秒だったりするわけで。
もちろん長いのなら「ゼロ・グラビティ」冒頭の17分とか完成度が高いうえに長いわけですし、長回しだけを目的に撮っている作品はいくらでもあります。
ただ、意図せず長回しになってしまった長さで言えば映画史上に残る・・・というか、そもそも意図せずそうなること自体が映画としてはおかしいのですが。

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【Cameraman and Editor's NOTE】8)演劇という結論

編集作業を進めながら考えるうちに、やはりこれは映画ではなく演劇なのだ、という結論に達しました。
映画と演劇との違いがどこにあるかというと、制作側と客席の信頼関係にあると思います。
たとえば山を見せるとき、演劇なら山で演じるのもありでしょうが、山の絵一枚を後ろに置くでもいいでしょう。
落語なら絵すら不要、むこう見て「大きな山やなあ」の一言で成立します。
この話は桂枝雀師匠のネタなんですがね。冒頭の5分は演劇やる方には必ず見ていただきたい。
その延長で言うと映画は、山に行って山を映さなければなりません。
なぜそうなるのかを枝雀師匠は、落語ではお客様との約束があるから、信頼関係があるから、と説明します。
映画ではお客様との信頼関係がないのですよ。
お客様は騙されないように映画を監視するのです。なぜなら、映像ほどお客様を騙しやすいものがないからです。
いい言葉で言えばリアリティーの追求ですけどね。
だからこそ普段、結婚式のエンドロールを作る際には、冒頭部分でお客様との信頼関係を築けるように気を遣っています。
この作品に関して言うと、演劇的に作られているため、お客様からの演劇的な信頼をいただくことが必要になってきますが、そこをどう解決していくか…
少なくとも映画映像的なアプローチは避けた方がいいように思います。
 

【Cameraman and Editor's NOTE】8)演劇という結論

編集作業を進めながら考えるうちに、やはりこれは映画ではなく演劇なのだ、という結論に達しました。
映画と演劇との違いがどこにあるかというと、制作側と客席の信頼関係にあると思います。
たとえば山を見せるとき、演劇なら山で演じるのもありでしょうが、山の絵一枚を後ろに置くでもいいでしょう。
落語なら絵すら不要、むこう見て「大きな山やなあ」の一言で成立します。
この話は桂枝雀師匠のネタなんですがね。
その延長で言うと映画は、山に行って山を映さなければなりません。
なぜそうなるのかを枝雀師匠は、落語ではお客様との約束があるから、信頼関係があるから、と説明します。
映画ではお客様との信頼関係がないのですよ。
お客様は騙されないように映画を監視するのです。なぜなら、映像ほどお客様を騙しやすいものがないからです。
いい言葉で言えばリアリティーの追求ですけどね。
だからこそ普段、結婚式のエンドロールを作る際には、冒頭部分でお客様との信頼関係を築けるように気を遣っています。
この作品に関して言うと、演劇的に作られているため、お客様からの演劇的な信頼をいただくことが必要になってきますが、そこをどう解決していくか…
少なくとも映画映像的なアプローチは避けた方がいいように思います。
 

【Cameraman and Editor's NOTE】7)映画の文法

「映画の文法」を改めて読み直してます。
やはり読み返せば読み返すほど、やはりこれは映画じゃないのかもしれない、という思いです。
映画とはなにか、という原点の話は、実はこの映画の中でも出てきます。
というか、映画の起源について講義する場面があります。
もともとは電気を使って絵が動く、不思議だね、という見世物として始まったもので、動画を見せてゼニを取れば映画として成立をする、という考え方もあります。
一方でそのあとに積み重ねた映画の文化というものがあって、それをどれだけ反映させているか、ということも映画には問われると思います。
絵が動いてゼニになればいいのであれば、テレビもYouTubeも映画だということになってしまいますのでね。
その点でどうなんだろう、と。
 

 

 

【Cameraman and Editor's NOTE】6)演劇と映画の狭間で

【Cameraman and Editor's NOTE】6)演劇と映画の狭間で
粗っとした編集が楽しく難航していましたが、終わりが見えてきました。
問題はこれを、どう映画として成立させるのか、あるいは映画としては成立させないのか・・・。
映像化された演劇と映画の狭間を漂っています。

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