【Cameraman and Editor's NOTE】21)私という役者

Cameraman and Editor's NOTE】21)私という役者
現在公開中「ぼくたちは、夢中になりたい」に撮影・編集で関わっています。
それにまつわる話を【Cameraman and Editor's NOTE】として書いていきます。
 
公開から10日ほどたって、様々なご感想をSNSやアンケート等でいただいていますが、その中でどなたか分かりませんが私を名指しで演技が上手くて驚いた、というものがあったようです。
ありがとうございます。
正直、自分で演技して自分で撮影してたので、撮影が気になって演技どころじゃなかったのですが。(あげく一部ピントあってないし)
 
本作の出演者はさまざまなバックボーンを持っているとはいえ、全く確認してませんが、たぶん過去に劇場公開映画に出たことがあるのは私だけだと思います。
 
他の出演者には2011年公開の「セーラー服黙示録」に出た時の話をしました。
沼津の海から出てきて、太陽の光を浴びてすぐ死ぬゾンビ役で、一体、私は何のために沼津の海から陸に上がってきたのか、誰かに教えてほしかったところでした。
のちに「カメラを止めるな」というヒット映画の中で、アル中俳優が訳も分からず車いすで泣く演技をさせられて「俺、なんで泣いてるんだっけ?」という場面がありましたが、あれを見て静岡東宝会館で爆笑したものです。
 
あれが最後だと思ってましたが、2015年公開の「向日葵の丘・1983年夏」で、女子高生を覗き見する役をやったのをすっかり忘れてました。
あれも、無理だと言われながら映画を作る話でしたね。
 
ということで、5年に1回くらいは劇場公開作品で演技してます。
というか、本作はそこらの自主映画とは違って、劇場公開作品なのですよ。
 

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【Cameraman and Editor's NOTE】20)リモート

 
新しい生活様式とか言うそうですが、リモートの場面が増えていくのは必然。
ただそれが今、映像でどれだけ効果的に生かされているでしょう?
既にリモート会話があるドラマや動画をいくつも見ましたが、基本的にはただ二人横並びになってるだけ、というのが多いように思います。
感心したものは記憶にありません。
本作品ではリモート会話が3シーンあって、あえてそれぞれ別の表現にしました。冒険はしていませんが、新しい表現方法を模索しています。
リモートだからって横並びにする必要はないと思うんですよね。
一つの可能性として、役者の一人芝居の場として生かすことが出来るのではないでしょうか。
本作では鈴木菫さんの一人芝居がそれにあたります。
このシーン、対になる佐藤さんの一人芝居もありましたし、シナリオ上は半々に使うようになってました。それも良かったのですが、まるっと捨ててしまう結果になってしまいました。
寛目線でドキドキしてもらいたい、というのが主な意図です。
あと、菫さん一人芝居終わりからの場面切り替えは、寛の気持ちが伝わるように、タイミングを計算してありますので、そこもご注目ください。
カメラ目線って力強くても、物語の中では不自然になります。
でもリモートなら、カメラ目線が自然なんですよね。
もちろん、現実のリモート会話でカメラ目線になることはほぼないと思います。あくまでリアルの現実と表現上の自然とは違う、ということです。

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【Cameraman and Editor's NOTE】19)恋愛要素

 
シナリオを見たとき、これはパフォーマンス界をめぐるアワーストーリーであるとともに青春映画である、と解釈しました。
青春ストーリーにつきものの恋愛要素についてどうするか、あまるさんに確認したことがあります。
その答えは書きませんが、その意向を反映させる雰囲気になっています。
美智子側については台詞で匂わせもあるのですが、寛側にはありません。そしてシナリオ上では最後まで回収されない部分でもあります。
それを個人的な趣味から、1カットで表現したのがこの場面です。
特に演出指示等はなく、こういうものを撮るということを伝えてすらいませんが、この微妙な距離感がいい感じ。普段からナチュラルな世界を作ってもらってたから撮れた、お気に入りのカットです。

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【Cameraman and Editor's NOTE】18)寺山修司

 
前回は撮影でももクロの「幕が上がる」の影響を受けた話を書きましたが、編集で一番意識したのは寺山修司の「田園に死す」です。
田園に死す」で寺山が目指していたのは演劇と映画、そして現実との融合ということになると思います。
その結末として、あの前衛的なラストになったわけでしょうし、本作の編集を通じてあそこに行きつくのはよく理解出来ました。
本作のネタバレにもなりますので、あまり詳しくは書きませんが、現実との融合という点で、少なくともあそVIVA!劇場での上映である限り、本作は寺山修司を越えた、と確信しています。
あんなはったりではありません。あそVIVA!劇場にはあそVIVA!劇場の、はったりを敬遠する空気があります。(だからこういう挑発的な投稿をするには抵抗もあるのですが)
それを体感できるのは残り10日で150人ほどです。
ハッキリ言って、ほかの環境で見て評価されたくはありません。オンラインやほかの環境での公開には反対したいですし、するなら昨日投稿した秒読みの場面でラストにするのがいいと思います。
私はこういう考えですので、完全版をご覧いただく機会も今回だけかもしれません。
予約フォームにある満席情報の記載から満席回が増えていますので、早めにご予約ください。

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【Cameraman and Editor's NOTE】17)青春映画

この作品は完全オリジナル、あそVIVA!劇場のための作品であって、他の劇場やオンラインで公開したところで、それはまったく別物になるだろうことは、ご覧いただいた方にはお分かりいただけると思います。
ただ、制作者として完全なオリジナルというものは存在するわけがありません。かならず作り出すものは、なにかの影響を受けて自分のものになっているはずです。
私が担当したうち、撮影パートで大きな影響を受けたものといえば、静岡でロケが行われたももクロの「幕が上がる」です。
それはこの場面を並べれば、よくわかっていただけると思います。同じ本番前の秒読みの場面です。

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基本的には青春映画なのですよ、本作は。
だから、ひたむきさを感じとり、ひたむきさを持っていれば元気になれると感じる、ひたむきさを失っていたとしたら自分が年寄り臭いと感じてしまう、そういう批評は正鵠を射ているのです。

 

【Cameraman and Editor's NOTE】16)劇伴

劇伴という言葉という言葉にあまり馴染みがありませんでした。
初めて聞いたのは、あべの古書店の鈴木大治さんがやってる「言触」で音楽のことをそう呼んでる時だと思います。だからこの数年のこと。
本作に関してはアートモバイルさんが音楽で関わっていて、そういう表現をされていました。
私はブライダルのエンドロールムービーをつくっていて、曲に映像を合わせる、という感覚を持っています。
だから映像に音楽を合わせる、という発想がまったくありませんでした。
なので一部場面で、こっちはこっちで音楽の出来上がりを待っていて、向こうは向こうで映像の出来上がりを待っていて、というお見合い状態が発生していた模様です。
ご迷惑をおかけしました。
あまるさんからサンプル音源が送られて来ていたのですが、全然あってなくて大丈夫かと思ったものです。見事に合わせてもらって作品の深みとなりました。
序盤で保と良子のやり取りの中で
保「罪滅ぼしのつもりなんですから」
というセリフがあります。
これは後への伏線になっているのですが、セリフの流れの中で埋もれてしまうように感じていました。
だから、この場面をここで終わらせて印象付けましょう、という提案を何回かしました。
あまるさんからは、この後のやり取りをどうしても切れない、という判断で生かしになったのですが、最終的にはこのタイミングからBGMが乗ることで印象付けにつながった、という経緯がありました。
(最終的な完パケをまだ見てないのですが、たぶんそういうことになってると思います)
そういったところも含めて、個人的には後から音楽が乗る、という効果が大変印象的で得るものが多かった部分です。